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1200年の古道・仙北街道が通る東成瀬村椿台探訪

 2022年6月1日(水)、森の学校2022「元気ムラの旅シリーズ8 1200年の古道・仙北街道が通る東成瀬村椿台探訪」が開催された。参加者は一般26名、森の案内人等10名、合計36名。歴史の道百選「仙北街道(仙北道)」をはじめ、東成瀬のキノコ・植物・昆虫、仙北街道踏査記録DVD鑑賞、村特産イワナの炭火焼、縄文ロマン&縄文ムラ(竪穴住居5棟)、菅江真澄の道・赤滝神社跡、最先端の施工技術を取り入れた成瀬ダム工事現場見学を行った。一般にはほとんど知られていない村の自然・歴史・文化や、少子高齢化時代の山村にも応用できそうな最先端技術について、濃密に学ぶことができた。懇切丁寧に解説してくださったガイドの皆様方に深く感謝したい。なお、今後、自分の足で仙北街道を歩いてみたい方たちのために、参考として仙北街道踏査の概要を併せて掲載する。
  • 主催/秋田県森林学習交流館・プラザクリプトン
  • 協賛/(一社)秋田県森と水の協会
  • 協力/東成瀬村教育委員会、東成瀬村まるごと自然館、秋田県森の案内人協議会
  • 「椿台」の地名の由来・・・村郷土誌によれば、「椿の自生地から名付けられたもので、今でも山々に椿の群落が見られる」とある。
  • 秋田が北限のユキツバキ群落・・・5月上旬、椿台周辺の雑木林を覗いたら、豪雪地帯に適応したユキツバキの群落が至る所にあった。地名の由来に納得!
  • ガイド①・・・仙北道を考える会会長 谷藤広子さん
  • ガイド②・・・まるごと自然館展示写真解説 半田克二郎さん 
  • ガイド③・・・まるごと自然館館長 櫻田隆さん
  • ガイド④・・・赤滝神社跡解説 高橋録朗さん 
歴史の道百選 仙北街道(仙北道)
  • 千二百年の古道・仙北街道とは
     802年、坂上田村麻呂は胆沢城を造営し、秋田側の雄勝城と最短ルートで結ぶ奥羽山脈越えの山道として開かれたと言われている。その道は、秋田県東成瀬村手倉から峰伝いに柏峠(1018m)を経て、岩手県奥州市胆沢下嵐江(オロセ)に至る24km。一帯は、1990年3月、白神山地や八幡平玉川源流部とともに、栗駒山・栃ケ森山周辺森林生態系保護地域に指定されている。そのブナ原生林のど真ん中を横断し、現在もなお開発から逃れて、ほぼ昔のまま現存している。2019年、文化庁が「歴史の道百選」に選定している。
  • 仙北街道の呼び名は様々・・・仙北道、手倉越え、中山越え、仙北街道、下嵐江(おろせ)越えなどと呼ばれていた。「歴史の道百選」の選定では、「仙北街道」となっている。 (写真提供:東成瀬村教育委員会)
  • 菅江真澄の記録には・・・「手倉山とて、いといと高き山あり、そこを手倉越へという、国ののり犯したるもの、この峠を越して追いやらうことあり、その大山をこゆれば、道の奥胆沢郡下嵐江という処に出るとなむ。」
  • 「いといと高き山」あるいは「大山」とあるのは、秋田・岩手県境の柏峠(1018m)をいう。仙北街道は、秋田側では「手倉越え」と呼んでいたことがわかる。さらに、この山岳街道は、秋田藩の重罪人を追放する山越えの道として利用されていたことがわかる。 (写真提供:東成瀬村教育委員会)
  • 首もげ地蔵・・・仙北街道は罪人を藩外へ追放する道としても利用された。かつて罪人を「首もげ地蔵」の地点で追放したとある。ある時、極刑の罪人が首を落とされる前に地蔵様の前で念仏を唱えていた。関所役人が切ったのは、罪人ではなく地蔵様の首だったという。逆に仙台領から追放され秋田藩に入った罪人もある。
  • 参考:藩外追放の罪とは・・・斬首、張付の刑に次ぐ罪人で、有夫姦通、博打常習悪質者、窃盗、放火、肝煎役の公金、年貢米のごまかしなど。
  • 参考:手倉御番所跡・・・番所の設置年代は定かでないが、1602年佐竹転封後、間もなくと言われている。役人を常駐させて、昼間は門を開き、夜間をこれを閉じ、人や物の出入りを監視していた。また物の出入りに税をかける税関の機能や、道の刈り払い、罪人を領外に追放する刑の執行機関でもあった。
  • 情状酌量のエピソード・・・役人が腰縄を解いてから罪人に向かって、独り言のように土手の方を指さし、「この下に川がある。そこの坂を下って左を見ていくと、1本の橋がある。それを渡ると岩井川村に出る。田子内を通って増田まで4里半ある。貴様はそのような道など逃げてはならぬ。仙台へ行けよ」と言って、御番所へ引き返した。すると、川向うの山道を先ほどの追放者が、菅笠をとって、御番所に向かって手を合わせ、何度も頭を下げながら増田の方へ急ぎ行ったという。
  • 地名や旧跡に設置された標柱・・・地元で採れる「合居川石」を使用している。 

仙北街道の歴史

  • 797年、大和朝廷は、東北の蝦夷を支配するため、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、801年、朝廷軍4万を率いて胆沢地方に侵攻。802年 蝦夷支配の軍事・政治拠点として胆沢城の造営が開始された。仙北街道は、陸奥胆沢城と出羽雄勝城を結ぶ最短ルートとして開かれたと言われている。
  • 前九年の合戦(1051~62年)、後三年の合戦(1083~87年)では、軍事道路として重要な役割を果たした。後三年の合戦では、清原家衡の逃げた道であり、それを追って源義家が越えた道でもあった。
  • 1187年、源頼朝の追討を受けた弟・義経は、奥州藤原秀衡を頼って、北陸路から本荘~雄物川町~増田町~手倉~下嵐江~平泉に戻った道だと言われている。
  • 江戸時代には、飢饉の救援米を大量に運んだ。胆沢町に残る「とや文書」では、文政8年(1825)の冬、飢饉救済のため、前沢領主が秋田から米三千俵を買い付け、仙北街道を運んだとの記録がある。また、岩手県前沢町の「高梨文書」でも、天保8年(1837)正月20日、やはり飢饉救済のため秋田米千七百俵を運んだと記されている。
  • またキリシタン、高僧・名僧、山伏などが通った布教の道でもあった。幕末には高野長英が江戸伝馬町の牢屋から逃げ、姿を変えて水沢の母に会うために山を越え、戊辰戦争では仙台藩から300人が山を越えて、秋田に攻め入ったという。明治11(1878)年、放浪の画人蓑虫山人(みのむしさんじん)が手倉から仙北街道を辿って水沢に行き、水沢公園の設計・造園に尽力している。
  • 千年以上の長い歴史をもっていたが、大正時代、北上~横手間の平和街道(国道107号)が開通すると、地図から消えていた。
  • 仙北街道の復活・・・苦難の船出
     いくら歴史のある街道といえども、人が歩かなくなると、あっと言う間に笹薮に埋もれ消えてしまう。道のないヤブを歩くことは、沢登り用語で「魔のヤブこぎ」と恐れられている。
     1990年、岩手県胆沢町の住民有志による踏査隊が、初めて仙北街道を辿り、東成瀬村に向かった。2日間にわたり、猛烈なヤブと化した道に何度も迷いながら、「魔のヤブこぎ」に疲労困憊。もうダメかと思い腰を下ろすと、石のようなものに当たった。何とそれが江戸時代に建立された「山神」の石碑だったという。その山神の石碑に導かれるように、やっと東成瀬村手倉に辿り着いた。その情熱的な活動に東成瀬村の住民有志も呼応し、翌91年に岩手県側に向かった。一行もまた、「魔のヤブこぎ」と不明瞭な沢沿いのルートに悪戦苦闘。予定より大幅に遅れてやっと辿り着いたという。仙北街道復活に向けた苦難の船出は、涙するほどドラマチックであった。
 
  • 1996年、東成瀬村に「仙北道を考える会」が結成され、1998年、胆沢町側に「仙北街道を考える会」が結成された。「柏峠」「中山小屋」など、旅人らに親しまれた地名を刻んだ標柱を作り、人力で担ぎ上げて設置するなど、一般の人たちが歩けるようになるまで、10年もかかったという。その後もルートの確認や古道の刈り払い、現状の記録を続けてきた。そうした努力が実を結び、2019年、「歴史の道百選」(文化庁)に選定された。
  • 険しい山岳街道は背負子が活躍・・・険しい古道は、牛馬を利用するのが困難で、荷を背負って運ぶ背負子が活躍した。一人当たり約30kg、自信のある者は45kgもの荷を背負った。難儀な仕事ではあったが、それだけ収入も高く、常に白米が食べられた。だから背負子を出す家は羨ましがられたという。
  • どんな物を運んだのか・・・秋田領からは、川連漆器、樺皮細工、蓑、ケラ、熊の胆、つる細工、かご類、山菜、反物など。米は藩外持ち出し禁止であったが、水沢資料によると3千俵が山を越えて入ってきたとある。仙台領からは、三陸の鮭や魚類、乾物、海草、魚網、仙台鍬、仙台木綿、砂糖、荒物、南部鉄器など。 
東成瀬のキノコや植物・昆虫など
  • 東成瀬のキノコ・・・まるごと自然館の二階には、東北菌学会会員の半田克二郎さんが撮影した多様なキノコの写真がたくさん展示されている。
  • ウルシとサワガニ・・・ウルシにかぶれた人が、病院に行って薬をつけても、一向に治るどころか、益々ひどくなった。昔から言われているウルシ対策として、サワガニ療法がある。試しにサワガニを潰して出る汁をかぶれたところにつけてみたら、翌朝には完治していたという。ちなみにカニはカニでも、タラバガニでは効果がなく、さらに悪化するらしい。患者にしてみれば、笑うに笑えない話だが、これは本当の話らしい。
  • 昆虫標本・・・里山の荒廃で激減している希少種・オオムラサキや栗駒山で見られるアサギマダラなど貴重な昆虫の標本も展示されている。
  • 村特産「栗駒・清流イワナ炭火焼」・・・丸太のような肉厚イワナを炭火の遠赤外線で焼いた逸品。大好評につき完売。仙人の郷・東成瀬の地で育つイワナだから、「仙人岩魚」とも呼ばれている
  • DVD「歴史ロマンに思いを馳せて 仙北道」を鑑賞しながら、楽しい昼食。このDVDは、仙北街道復活30周年記念事業として、2020年に踏査した記録である。初めて歩く方は、このDVDを予習として鑑賞することをオススメしたい。
縄文ロマン&復元された縄文ムラ(竪穴住居)
  • 東成瀬村で縄文時代の土器や石器などが見つかっているのは18ヵ所。うち発掘調査された遺跡は3ヵ所。「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されたことは記憶に新しい。その国内最古の世界文化遺産は、1万年もの長きにわたり自然と人間が共生してきた森の文化であり、21世紀の持続可能な「自然と人間と文化」のあり方を学ぶ人類共通の宝である。それだけに村で発掘調査された縄文遺跡の解説を興味深く学んだ。
  • 上掵(うわはば)遺跡出土の大型磨製石斧の素材は北海道産・・・解説いただいた中でも特筆すべきは、村で発掘された大型磨製石斧である。その石材は、400キロも離れた北海道でしか採れないアトラス石と鑑定されたという。縄文期の交易の広さを物語る貴重な石斧である。何かの儀式に使われた特別な石斧であろう。昭和63年、国重要文化財に指定されている大変貴重な文化財だ。
  • 復元された縄文ムラ(竪穴住居5棟)・・・村の積雪は2m、多いときは3~4mに達する特別豪雪地帯である。その豪雪に耐えられるよう、屋根を地面まで葺き下ろした合掌造りで、5棟が復元されている。ただ見学するだけが目的ではなく、「いつでも、誰でも」縄文生活(ものづくり・自然観察・採集・料理・キャンプなど)が体験できる施設として活用している。
菅江真澄の道・赤滝神社跡
  • 菅江真澄の道「赤滝」・・・風光明媚な赤滝の右岸には、赤滝神社があったが、成瀬ダムが完成するとダム湖に沈んでしまう。既に移転補償で解体され、移築先を検討中とのこと。赤滝の名の由来は、滝の岩盤が酸化鉄のため赤くなり、落下する滝が赤く見えるからだという。
  • 滝壺を彩る白い花・・・ナナカマドとカマツカの花
  • ガイドの高橋録朗さんは、菅江真澄が描いた「赤滝」や「切留村」「須川高原温泉・大日岩」などの図絵をたくさん持参していた。聞けば、真澄研究会の人から借りてきたという。かつて神社があった位置から能恵姫伝説、雨乞いの神など手づくり資料も使って詳細な解説をしてくれた。
  • 能恵姫伝説・・・湯沢市岩崎の千年公園には、水の神・龍神となった能恵姫像がある。
     昔、岩崎城の殿様には、能恵姫という娘がいた。姫は16才になり、川連城へ嫁ぐことが決まっていたが、婚礼の日に城下にある皆瀬川の淵に呑まれ、そのまま帰らぬ人となってしまった。竜神と化した姫は栄ヶ淵の大蛇の妻となったが、大倉村の鉱毒が流れてくるので、そこに住んでいられなくなり、上流に向かって上り、赤滝へ。やっと、能恵姫は安住の地を見つけて、滝の底の岩屋に、大蛇と二人で住んでいる。それを聞いた村人達は、赤滝のほとりに小さなお堂を建てて「赤滝神社」として、能恵姫を奉っているだという。
  • 湯沢市岩崎の村々は、皆瀬川から水を引いて稲作や醸造業に利用している。水争いも絶えず、公園の北端に水神社と一緒に能恵姫も合祀されている。水の神・龍神の信仰と結びつく伝説の一つと考えられている。

菅江真澄図絵「赤滝」(秋田県立博物館蔵写本)

 図絵には、赤滝右岸の鳥居が並んだ先に赤神神社が描かれている。
  • 菅江真澄「駒形日記」・・・1814年8月19日、東成瀬村から栗駒山に向かって歩いた日記。
     仮立神門といって、貫のない二柱の鳥居で、世間でいう撞木門(しゅもくもん)と同じような形のものが二つ三つ立っている。道を西方にしばらく行って坂を下ると、赤滝という茶褐色の滝が落ちていた。赤滝明神が祀ってある。水上は赤川であろう。それがしばらく流れてから岩にかかって滝となっている。木々は深く茂り、みな紅葉して、趣のある景色だ。この滝の明神の前の梢に絵馬が一枚かけてあり、「根子村某」と記してあった。由利郡矢島の根子村の人だろうか、秋田郡阿仁の根子村の人であろうかなどと、これを見ながら人々は言い合った。
  • 雨乞いの神・・・赤滝神社は、「雨乞いの神」として知られた神社で、真澄がこの神社を訪れた時、根子村の絵馬を見て、矢島の根子か、阿仁の根子かと話している様子を記している。当時は、県内のあちこちから雨乞いの神として信仰を集めていたことが分かる。
  • 農家にとって、水不足は死活問題・・・高橋ガイドによれば、つい最近まで、渇水期の8月ともなれば、各地から白い装束をまとった人たちが列をなしてやってきたという。
  • 菅江真澄「駒形日記」に記された「山ハゲミ」・・・「今、枝を折ってさしたハゲミは、どこの谷へ下りて行ったのだろうかと案内が佇んで言った。どのような生業をするものか問うと、彼らの今ごろの仕事は、コウタケ、マイタケなどをとっているだろうが、全てそのような山稼ぎをする者たちを山ハゲミというのだと答えた」と記している。ブナ帯の森の恵みで山稼ぎをする人たちを「山ハゲミ」と呼んでいたことが分かる。その一つに村特産の「マタタビ細工」がある。
  • マタタビ細工(写真:秋田県立博物館「植物を編む」)・・・東成瀬村では、かつて家のすぐそばに生い茂っていたマタタビ細工が盛んであった。水切れが良いことに加え、水分を含んだ材料はしなやかで手を傷つけることが少ないのが特徴。ザルやビグ、カゴなどの生活用品が製作されてきた。12月頃、一度雪が降ってツルがしまった時期を狙い採取する。葉を落とし、樹皮を削いでから専用の道具で割っていく。
成瀬ダム堤体打設工事現場見学(鹿島・前田・竹中土木特定建設工事共同企業体)
  • 成瀬ダム工事を体感・学習できる施設「KAJIMA DX LABO」
  • AR体験・・・施設内にあるジオラマやパネルなどにタブレット端末をかざすと、AIを盛り込んだ複数の自動化重機を連携させるなど、最先端施工技術、成瀬ダムの役割などを映像で詳しく学ぶことができる。
  • 展望デッキ・・・展望デッキから現場に向けて端末をかざすと、成瀬ダムの完成予想図などのAR体験や多くの自動化重機が無人で堤体を打設していく様子を見学。こうした最先端技術は、人手不足が深刻なダム建設現場で急速に進んでいるという。ならば同じ悩みをもつ山村でも、これらの先端技術に習い、スマート農林業や進展著しいドローンの技術も組み合わせ、クマ等野生動物対策にも応用されていくことを期待したい。

参考:仙北街道踏査の概要

  • 仙北街道ルート図(「みちのくブナ古道 よみがえる仙北道」東成瀬村より)
  • オススメのコースは、大半がブナ帯の森を縫うコース・・・東成瀬村豊ケ沢林道車止め~藩境塚(秋田藩と仙台藩の境界、岩の目沢)~丈の倉~引沼道~五本ブナ~柏峠(1018m)~山の神(1805年の石碑)~笹道別れ~ツラコブ~中山小屋(秋田・岩手の荷物交換場所、お助け小屋)~小出の越所(お助け小屋)~亀の子岩~栃川落合~ツナギ沢~マタギ坂~大胡桃山(934m)~840m分岐~岩手県奥州市胆沢区大寒沢林道終点に至る約12kmである。
  • 豊ヶ沢林道終点・姥懐(うばふところ)・・・ブナ帯の森を歩く仙北街道の起点。(写真提供:東成瀬村教育委員会) 
  • 柏峠(1018m)・・・「引沼道」「5本ブナ」を越えると、道中最も高い「柏峠」に達する。地名や旧跡に設置された標柱は、古道を復活させた東成瀬村「仙北道を考える会」と奥州市胆沢区「仙北街道を考える会」の皆さんの労力奉仕によって成し遂げられた。古道を歩く旅人にとって、こうした標柱は、願ってもない目印になっている。
  • 古道の補修・・・ブナ林の中を通る三尺の道は、毎年のように刈り払いをしないと通行に支障が出る。村郷土誌によれば、「道路は毎年両方から義務人足を出して、雑草や道の邪魔になる柴や笹を刈り払ったので通行の時は笠を被り、荷物を背負って十分通れる道であった」と記されている。それは昔も今も同じ。「歴史の道百選」に選定されたことで、古道の補修や説明板の設置にかかる費用が国の補助対象になることから、今後の保全活動の活性化に期待したい。
  • 山神の石碑・・・江戸時代・文化年間の年号が刻まれた道中唯一の旧跡。「山神碑拓本」によれば「文化二年(1805年) 前沢町□□屋 世話人・・・山神・・・吉左エ門 田子内 喜□□ 七月十二日」と解読されている。この「山神」の石碑は、難所が続く街道を行き交う人々の精神的な支えになったことは間違いないであろう。 (写真提供:東成瀬村教育委員会)
  • 根曲がりブナ・・・雪圧によって根元が曲がったブナは、一帯の雪の深さを物語る。白神山地と同じく、豪雪地帯に適応したブナの純度は高い。
  • 江戸時代、どんな人たちが歩いたのだろうか・・・山菜、きのこ等を採る山人も常時通ったが、商人、一般の旅人、芸人、勧進、武士、各種職人、土方、坑夫、飛脚、追放の罪人、乞食や浮浪人、隠れキリシタン、参詣人、松島見物、旅マタギ、木地屋など。また嫁や婿のやりとり、下嵐江(オロセ)明神祭りの時には、泊りがけで梵天や恵比寿俵を奉納したという。特に一般庶民から裏街道を歩くような人たちが多かったと推察されるだけに、民俗学的にも貴重な古道である。  
  • 粟畑(あわばた)・・・「笹道別れ」「ツラコブ」を下ると「粟畑」と刻まれた標柱に達する。ここから仙北街道の中間地点「中山小屋」も近い。
  • 「粟畑(あわばた)」付近のブナの巨木・・・200年~300年ほどのブナの巨木が林立し、1200年の古道を歩く気分は満点である。 (写真提供:東成瀬村教育委員会)
  • 中山小屋・・・秋田と岩手の荷物の交換を行った中山小屋の跡。標柱が設置されている右手に平らな場所がある。ここに中継所兼仮倉庫であった笹小屋があったのだろう。旅人の一夜の宿としても活躍したらしく「お助け小屋」とも呼ばれていた。小屋には、常時鍋と椀が備えられていた。手倉からここまで3里・12km、ちようど半分の道程である。
  • ブナの幹に刻まれたナタ目・・・「中山小屋 十三年八月」と刻まれていた。 例え古道が笹薮に消えたとしても、ブナの幹に刻まれたナタ目や山神の石碑は残る。地図から消えた古道を見事に復活できたのも、先人たちが刻んだ多くのナタ目や山神の石碑があったからであろう。だから山に生きた人たちのナタ目を安易に「落書き」などと批判してはならない。山で迷えば、その有り難さが身に沁みるはずだ。
  • 小出川の渡渉(小出の越所おいでのこえど)・・・小出川が増水した時は、相当難儀をして川を横断した。この左岸の穏やかな台地には、かつて「お助け小屋」と呼ばれる合掌造りの笹小屋があり、鍋1個が備えられていたという。かつて、この街道を行き交った人々は、焚き火を囲み、イワナや山菜、きのこ、木の実を採り、山の恵みを有難くいただいたに違いない。
  • 小出川の名の由来・・・胆沢川に合流する地点の川の出口は、両岸屹立する壁が連なり、川幅が急激に狭くなる。大雨が降れば、川通しに帰ることができなくなるほど出口が小さいことから、小出川となったものであろう。
  • 小出川周辺のブナの森 /1991年8月下旬、小出川の記録・・・ブナの森は光りも音も、そして風も吸収する。沢の音、風の音。ともに、深い森の中では静寂の音に変わる。天を覆う緑を透視する光り。苔むした太いブナの根元に佇む。スベスべした木肌を摩る。抱き着く。「母なる木・ブナ」がそこにあった。森の中に雨が降れば、それは慈雨となり、光が差し込めば慈光に変化する。そんな森の中で、蝶が舞い、虫が歌う。私は完全にブナの虜になっていた。
  • 栃川渓流の渡渉・・・仙北街道沿いに流れる沢が、小出川支流栃川である。一帯はブナ、サワグルミ、トチノキ、カツラなど広葉樹の原生林に覆われている。  (写真提供:東成瀬村教育委員会)
  • 秋、栃川を歩けば、その名前の由来がすぐに分かる。上の写真は、沢に大量に落下したトチの実。見上げれば、巨大なトチノキが至る所に林立している。
  • 古道は、ときおり沢に降りたり、滝を小さく巻くようなルートが続く。左手にツナギ沢が合流すると、まもなく左手の高台が栃川落合。正面の二条の小滝は、通称「亀の子岩」と呼ばれている。 
  • 「仙北街道 栃川落合」と刻まれた標柱
  • 「ツナギ沢」と刻まれた標柱。ツナギ沢沿いの古道は、ここが終点。
  • 古道沿いのブナの幹に「尿前 高橋」と刻まれたナタ目。それにしても達筆なナタ目に感服!
  • 急斜面の窪地が続くマタギ坂を登る。道中最もキツイ。岩手水沢から東成瀬村手倉に向かった記録には、「ゆるい登り下りを繰り返した後『マタギ坂』にのぞむ。山の水に洗われて岩盤の露出した難儀な坂である。まるで地獄に降りるような急な長い坂を下ることしばし、やっとの思いで二つの渓流の合流点に到達する『ツナギ沢』である」と、下りコースでこうだから、上りならさらにキツイ!
  • 広い古道の謎・・・標高差100m余り登ると、牛や馬が通れるような広い古道に出る。難所が続く仙北街道は、背負子によって荷を運んだ。このままでは背負子の賃金が高くつくばかりでなく、旅人の労力にも忍び難いものがあった。何とかしてこの山道を馬や牛が通れるようにできないものか・・・それは両藩住民の悲願であった。
  • 両藩の肝煎が内々に相談をし、牛道に改修する許可願いを藩庁に送った。ところが許可がなかなか出ず、しびれを切らした肝煎は、まさか「不許可」ということはあるまいと、改修に乗り出した。山道開墾途中、秋田藩から突如「その工事まかりならぬ」というキツイ中止命令がきた。藩庁より御用の提灯をかざして肝煎が引き立てられていった。途中で頓挫した牛道改修の名残りが、この広い古道である。
  • 大胡桃山(おおぐるみやま・・・標高934m、道中最も見晴らしの良い場所である。「地元の人が゛野坊主゛と呼ぶこの山は、四方さえぎるもののない、極めて眺めの良い山で、野坊主とはよくもよんだり、草と潅木だけの丸い形の山である」(仙北街道覚書より/写真提供:東成瀬村教育委員会)
  • 右手正面の平らな山が栃ケ森山(1070m)山頂の向こう側は、東成瀬村北ノ俣沢である。1,200年前に見た風景と全く変わらない風景が広がっている。仙北街道を踏破して思うのは、古道から今なおかつての原風景を見ることができる・・・これは、現代に残された「奇跡の古道」と言うべきだろう。 (写真提供:東成瀬村教育委員会)
  • 左のルートは、小胡桃山へ。右のルートは、大寒沢林道終点へ。
  • 岩手県奥州市胆沢区大寒沢林道終点にある森林生態系保護地域の看板。
  • 参考:古老が伝える「背負子」・・・「仙北道」の覚え書き抜粋
     下嵐江詰めの背負子たちは早朝に「トヤ」に集まり、前日届いている荷を背負い、荷請証に記録してもらう。荷は一人8貫(30kg)ほどで、自信のある者は更に4貫(15kg)上乗せした。一団8人の内6人は上乗せしたものだ。背負子の一団は、追分・天沼・小胡桃山(こぐるみやま)・アドレ坂・大胡桃山(おおぐるみやま)・マタギ坂・ツナギ沢を通って小出川(おいでがわ)に至る。
     この川は増水時は相当に難儀する。ここを渡ったところで少し早いが昼飯にする。この近くに「お助け小屋」があり、野宿をせざるを得なくなった人のためのもので鍋一個が備えられていた。そこを過ぎて再び急坂を上り一里ほど行くと平らになった所に「中山小屋」という倉庫があり、そこに荷を降ろす。中山小屋には秋田側から係役と背負子十人位が詰めており、荷を調べてもらい、荷受証に記録してもらう。帰り荷があれば荷請証に記録してもらい背負う。帰り荷はいつも少なかったので交代で背負った。
     帰途は荷が少ないことや天気、山道の上り下りの都合で往きとは違う道を通ることが多かった。「トヤ」に戻り荷請証と照合して白米三升をもらい帰宅した(上乗せや返り荷の割増も当然もらった)。白米3升とは、大工や元山(建築材を木取りする職人)等と同じ日当であり、背負子の出ている家は他家から羨まれたという。
     下嵐江~秋田の手倉間には人家がなく、途中事故があれば「お助け小屋」か野宿する外ない。旅装徒渉で早朝下嵐江を出発すると、夕方手倉に着く。逆も同じ。下嵐江・谷子沢には民宿的な家があったようだ。
  • 参考:阿仁マタギと仙北街道(写真:東成瀬村ふる里館「マタギと鷹匠」)
     村郷土誌によれば、マタギの村は、岩井川、入道、手倉、五里台、天江、大柳、桧山台など。その猟場の一つが、仙北街道沿いにある小出川流域であった。
  • 阿仁の旅マタギは、明治の初めから中頃にかけて、ほとんど毎春、2、3人から4、5人でやってきた。彼らは、手倉集落の佐々木助右ヱ門宅を宿とし、滞在一ヶ月のうち大方は小出川の洞穴の山住まいをして熊狩りをしていたという。
  • 地元マタギと阿仁マタギは、共同で巻き狩りをしたり、仙台マタギと三者合同で熊狩りをしたことも度々あったという。小出川付近の原始林に山刀で「阿仁」と彫ったブナの大木が現在もあるという。考えてみれば、白神山地や山形県小国町、長野県秋山郷などと並び、この恵み豊かなブナ帯の森を、マタギの本家・阿仁の旅マタギが見逃すはずはなかった。
  • 参考:ブナ帯の森と縄文文化
     縄文が始まる以前の寒冷な時代は、気温が今より10℃近くも低く、海水面が120mも低かった。だから日本海に対馬暖流は流れていなかった。当時は、亜寒帯針葉樹の森に覆われていたのである。その寒冷な氷河時代から後氷期という温暖な時代に激変すると、海面が120m上昇し、日本海に対馬暖流が北上してくる。一方、中国大陸からは、非常に乾いた大気が西から東へと流れてくることによって、日本海側に多くの雪をもたらした。これが、世界で一番早くブナやミズナラなど落葉広葉樹(ブナ帯)の森が成立した理由である。そのブナ帯の自然に適応し、それを基礎に発展したのが北の縄文文化である。だから縄文文化は、東北を代表する「ブナ帯文化」の基層をなす文化だと言える。
  • 仙北街道は、開通以来1,200年という歴史の深さと、今から1万5千年前、世界に先駆けて縄文文化を開花させたブナ帯の森の原風景を見ることができる。つまり縄文人が見たであろう森の原風景を眺めながら、遥かなる歴史のロマンを追うことができる。これ以上の古道はないであろう。 (写真提供:東成瀬村教育委員会)  
参 考 文 献
  • 「東成瀬村郷土誌」(東成瀬村教育委員会)
  • 「東成瀬村郷土誌 平成編」(東成瀬村教育委員会編、東成瀬村)
  • 「歴史の道調査報告 手倉街道」(昭和62年3月、秋田県教育委員会)
  • 「蘇る、仙北街道 踏査20周年記念誌」(仙北街道交流20周年記念事業実行委員会)
  • 河北新報2000年6月25日付け「とうほく山の物語」
  • 秋田さきがけ「仙北街道復活30年/『歴史の道』選定/古道継承へ機運再び」
  • 「菅江真澄遊覧記5」(内田武志・宮本常一編訳、平凡社)
  • 「菅江真澄図絵集」(田口昌樹、無明舎出版)
  • 「みちのくブナ古道 よみがえる仙北道」(東成瀬村)
  • DVD「歴史ロマンに思いを馳せて 仙北道(2020年踏査/30周年記念)」(東成瀬村、村教育委員会)
  • 配布資料「縄文ロマン通信 第1号~第3号」 (東成瀬村教育委員会)
  • 「秋田県の歴史散歩」(山川出版社)
  • 東成瀬村椿台 | ムラのページ | 秋田県のがんばる農山漁村集落応援サイト
  • 東成瀬村まるごと自然館  電話0182-47-2362 FAX0182-47-2382